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2021.6.9
2021年6月8日(火) 10:30~12:00、第7回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。
奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。
今回取り扱ったのは、「第4章 愛の深さ(その1)愛と呼びかけてくるもの」です。
レジュメ作成・報告は、「みらいつくり大学」教務主任の宮田直子が担当しました。
この章では、愛と、呼び掛けてくるものについて扱われていました。
筆者ははじめに、死にさしかけられた限りある人生の存在の根源は、「無限の泉のように湧き出る、生命への愛」である。というところから、この章を進めていきます。
ドイツの哲学者フィヒテは、『淨福なる生への指教』という書籍で、
人生とは愛であり、~愛のうちに存し、愛のうちから生じるとし、
愛しているものは、憧れのすべてをもって追い求め、努力しているものであると述べました。
これは、人生の核心・生の本質を射抜いた言葉であると、筆者は述べます。
また、真実の人生と偽物の人生というものを挙げます。
真実の人生とは、
・一なる変わることのない、永遠的なものを愛し、至福に満ちたもの
・愛の対象を「神」と呼んでも良い
・神のうちに生き、神を愛する
・愛されるもの(変わることのない存在・生命)と合一し深くそれと溶け合うこと至福とみなす
偽物の人生とは、
・移り変わる定めのないものに執着する
・世俗のうちに生き、この世俗を愛することを試みる
・偶然的で空しいものに執着し、悲惨で不幸
というそれぞれの特徴があるそうです。
フィヒテは、この他に「永遠なものへの憧れ」があると言います。
それは、不滅のものと合一し融合しようとする衝動、有限的な現存在の最内奥(さいないおう)の根元であるそうです。
真実に生きることこそ、真実の人生であるとし、
・多様なものから一なるものへ愛を振り向ける
・心を引き締め、自分自身へと立ち帰る
・真剣に深い思いを持って生きる
これらのことが、真実に思索し、真理を認識することであるそうです。
次に人生への愛として、筆者は以下のように述べます。
世俗の空しさに満ち満ちた「偽物の人生」を振り捨て、永遠的なものとの合一を目指した「真実の人生」を生き抜こうとする態度や「憧れ」に突き動かされた「愛」の「人生」である。
この人生への深い愛というものを、実際に動かし具現化・積極的に発動・成就するのは、「呼びかけてくるもの」です。
「呼びかけてくるもの」は人生への深い愛へ招き・誘い・導くとし、その中には「美」と「良心」が存在します。
美とは、誰もが美しいものを愛する本性を具有しており、美の輝きは愛の心を誘います。
愛とは、美しいもの素晴らしいもの光輝くものへ向かうもので、愛と美は結び合うものです。
美についての考え方として、
・美を「秩序」「調和」「均斉」「節度」のうちに見るという考え方
・調和や秩序は、醜悪なもの、害悪を生み出すもの、嫌悪するさまざまな不快なものにも存在
・複雑な要素を相互に関係づけ、調和や秩序が成立するが、単純素朴なものが美しく輝くこともある
というような、様々な考え方があります。
古代ローマの哲学者、プロティノスの『エネアデス』には、
・美は調和や秩序に尽きるものではなく、さらに「光輝く」ありさまで魅惑するところに本質をもつ
・究極的には、「美を超えた美」「美の源泉」にして「極致」である存在の根源へと導かれる
・「美」の「輝き」は存在の根源へと呼びかけられ、呼びさまされる契機
古代ギリシアの哲学者プラトンの『パイドロス』には、
・「美」こそが「最も光輝くもの」「最も恍惚(こうこつ)と魅惑するもの」という定めをもつ
・私たちを「存在そのもの」へと高め向かわせる
偽ディオニュシオス・アレオパギタの『偽ディオニュシオス・アレオパギタの書』には、「神の名について」と題する論述があり、その中で「美」とは呼ぶものと宣言する。と書かれています。
このように、古代から様々な哲学者が、美についての考察をしていることが分かります。
西洋中世~近世初めには、「美への憧れ」が「愛」にほかならない。という思想が広がりました。
「美」=明るさ、輝き、呼ぶ(誘う、招く)働きであるとし、
その呼びかけは、神的な、絶対的なものであり、人間を呼びさまし、立ち帰らせようと意図しています。
人生への愛は「呼びかけてくる」美しいものによって開始し、自分自身の進む道が見えてくると筆者は述べます。
「美」による呼びかけは、積極的な形での人生への愛の発露、人生の「前景」
「良心」による呼びかけは、人生への愛の手綱を引き締める役割、人生の「背景」であり、私たちを見張る役目
だといいます。
良心という言葉が出てきましたが、良心という言葉の語源はラテン語の「コンスキエンティア」で、それは「共に知る」という意味があります。
「共に知る」というのは、他人が行為する場に居合わせ、良し悪しを「共に」「知っている」という意味以外に、
自分自身の振る舞いについて自分自身が「共に」「知っている」=自分の行為への「随伴意識」、「自己意識」という意味もありました。
人間とはもともと「非力」で、「責めあるもの」で、全能ではありません。
真の「普遍性」に高まる事は容易ではなく、「個別性」により良心の光を汚すことが頻繁に起こります。
このことから、「内面的な法廷」に身を置き、「呼び声」に耳を傾け、自己の生き方に監視の目を光らせ、正しく導く努力をしなければならないと、筆者は述べます。
良心の呼び声の分析は、ドイツの哲学者であるハイデガーが行っていました。
・良心が「呼び声」として「語りかけてくる」ものであるという分析を行う
・堕落した非本来的な自己に向かって「沈黙という不気味な様相」で「呼びかけて」くる
・本来的な自己であるようにと「呼びさます」
この呼び声の出所は、神・世間ではなく、自己自身が「呼ぶもの」「呼びかけられるもの」で、「良心の呼び声」による決意と自己吟味を失う時、美的人生愛は過つ虞(おそれ)なしとはしない。とハイデガーは言います。
良心の呼び声は、
・心の奥底につねに響き渡る
・「沈黙」のなかで「聴き取り」、実存の「語り」に耳を澄ませ、人生を歩む
・声を聞くために、心を洗い清める
として、筆者は最後にオーストリアの詩人、作家であるリルケの
『ドゥイノの悲歌』
【声がする、声が。聴け、わが心よ。】
という詩を引用し、この章は終わりました。
ディスカッションでは、
美は「美しい」と「綺麗」という表現があるが、建築の世界では、綺麗=新しいもので経年劣化する、美しい=時間が無関係で、美しい建築は少ない。という、美に関する話題がまず挙がりました。
論点としては2つ出ました。
論点1は「皆さんは、永遠への憧れがあるか」というもので、不老不死のような意味合いでの憧れを持つ人はいませんでしたが、自分の人生が終わることは怖いという意見はありました。
また、この本文の内容から、恋愛の場面などの気持ちが変わらないという意味合いでの「永遠への憧れ」なのではないかという考察が出ました。
論点2は「良心の呼び声を聞くことはあるか」というもので、それぞれの落ち着ける空間などの話題が挙がりました。
皆さんは、どんなものを美しいと感じますか?私は最近、フラワーアレンジメントを習っていて、みずみずしい花を見ていると美しいなと感じます。
次回、第8回(偶数回)は、6月15日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第2章(10節)~第3章(11・12節)」を扱います。
第9回(奇数回)は、6月22日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第5章 愛の深さ(その2) 葛藤を秘めた人間」を扱います。
レジュメ作成と報告は、みらいつくり研究所 学びのディレクターの松井翔惟が担当します。
参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。
執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)
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