Works

第3回 みらいつくり哲学学校 「第2章 生と死を考える(その2)死を見つめる」開催報告

前回の報告はこちら

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

2021年4月20日(火) 10:30~12:00、第3回となる「みらいつくり哲学学校オンライン」を開催しました。

 

奇数回は、渡邊二郎著『人生の哲学』を課題図書にしています。

今回取り扱ったのは、「第2章 生と死を考える(その2)死を見つめる」です。

レジュメ作成・報告は、みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライターの吉成亜実が担当しました。

 

この章では、哲学者や思想家などによる死の見つめ方が扱われていました。

 

筆者は、「哲学的存在論的な意味で、死そのものをより見つめ直す必要性がある」として、エピクロス、ハイデッガー、サルトル、モンテーニュ、ヤスパースなどの「死の分析」を用いて考察を進めます。

 

筆者がまず着目したのは、古代のヘレニズム期の哲学者エピクロスです。

エピクロスは、死を「経験不可能なもの、存在しないのも同然のもの、なんら恐れるに足りないものである」と主張しました。

 

死が恐れるに足りないという理由は、「生のないところには何ら恐ろしいものがない」からだといいます。

 

エピクロスは、上記のように死を捉え、

「死の異質性」・「経験不可能性」・「無にも等しい事態であること」から、死を度外視して、あとはひたすら、「美しく生きること」に心を向ければよいと主張します。

 

この主張に対して筆者は、死の経験不可能性の主張を除けば、エピクロスの見解には疑問が多いと言います。

 

 

次に、哲学者ハイデッガーの著書『存在と時間』(昨年度の哲学学校課題図書ですね)から、死を捉えます。

ハイデッガーは、人間のことを「現存在」と呼び、その現存在がそのつど取る自分自身の「存在」の仕方のことを、「実存」と名づけます。

このような「現存在」の「実存」が、根本的に「死に関わる存在」であると主張します。
また、死を「経験」した人は誰もいないことから「他者の死」が強烈な経験となると言います。

 

ハイデッガーはエピクロスと違い、自分の死は経験できないとしても、「他者の死」という形で「客観的」に与えられ、「経験」されうると見ました。

 

ハイデッガーは他者の死を「ただその場に居合わせているにすぎない」、「いかなる人も、他者から、その死を取り除いてやることができない」とし、「死は、本質的にそのつど私のもの」であると述べます。

つまり死は、「各自」の「実存」に深く関わる「特有な存在可能性」であるということです。

 

また現存在は本質的に「未完了」で、死において完成するのではない。自らの「終わりへと関わりつつ」存在している。というハイデッガーの主張から、

「死に差しかけられた、終わりある存在として、自分の実存を自覚し、これを鋭く見つめ、これへと関わって、自分の実存をいかに生きるべきであるのか」が死の問題の大切な主眼点であると筆者は述べます。

 

 

次に、サルトルとモンテーニュの見解を見ていきます。

 

・サルトルは、現代のフランスの実存主義者です。著書『存在と無』のなかで、反ハイデッガー的な立場を取ります。

サルトルは、死などを「どうでもよい」事柄だとして、死などに煩わされない、まっしぐらに生に突き進む、自由の哲学を提唱しました。

 

このような主張に、筆者は「サルトルの見解は妥当か」という疑問を持ちます。

サルトルは死を「私の固有な可能性」ではないと主張したことに対して、
ハイデッガーは、死を「実存が不可能になる可能性」という「特有な存在可能性」。あらゆる可能性の剝奪としての「無」の出現が死であることを述べていた。とし、ハイデッガーとサルトルの見解は同じであると筆者は言います。

 

・モンテーニュは、フランス・ルネサンス期の思想家です。

モンテーニュは、死を「自然の、どうでもよい、偶然的事実」と捉えながらも、死を思う覚悟の重要性を繰り返し強調します。

ハイデッガーの分析に異論を唱える論評もあり、このモンテーニュの主張を支持する声もありました。

 

 

最後に、現代ドイツの思想家ヤスパースの著書『哲学』から、死を捉えます。

『哲学』の中に、「限界状況」という言葉が出てきます。

 

限界状況とは、私たちの生きているさまざまな状況のなかで、「壁」に突き当たってその先が「見渡せず」、ただ「挫折」するだけであるような状況のことです。

限界状況が、個別的な姿を取って現れたそのひとつが、死だと言います。

 

限界状況としての死の5つの局面があります。

 

①最も身近な人の死
・死は、他者の死、とりわけて「最も身近な人の死」という形で出現し、私たちを震撼させる
・亡くなった人が大切な人物であればあるほど、故人との交わりを大事に胸の奥にかき抱き、忘れえぬ契りにおいて、その故人と共に生きる決心を固めるはずである

=死をも超えて持続する心の交わりと誠実さを強調

 

②私の死
・私の死は私には経験できないという事実を承認する。だからといって、私の死は、私にとって無関係ではない
・些事に捕われている者には、死の不安は取り除きえないが、実存に目覚めた者にとっては、「死をまえにして落ちつきはらい、終焉を知って悠揚(ゆうよう)平静さを失わないことが可能になる」

=死を先取りしつつ、本来的に生きる覚悟を重視している

 

③生きながらの死
・死の定めを思い、それでも実存に目覚めぬときには、人間は、生きながらも、死んだも同然の状態になってしまう
・「さあ、食べて飲もうじゃないか、だってあしたは死ぬんだから」と言って、たんに享楽に耽けるならば、実存は失われてしまう。
・真の実存は、いたずらな延命にあるのではなく、「決断による充実」のうちにある

 

④死の深み
・死の深みの意味は、「死の異質性が脱落するということであり、私は私の根拠としての死へと向かってゆくことができるということであり、死のうちには、概念的理解を超えた仕方でではあるが、完成が秘められているということである」
・死をも辞さずに、一身を擲って(なげうって)こそ、活路も開かれ、真の偉大な事業も達成されうる

=死をとおした生の躍動という思想のうちには、死の汲み尽くしえぬ深さという思想が伏在している。死は、ときに「庇護ある安らかさを与えてくれる」

 

⑤死の変貌
・死は、「私とともに変貌する」
・死は、私の生涯を通じて、私の人格的成長とともに、その相貌を変化させる
・死は、容易には見極めえない複雑な意味と含蓄を秘めている

 

 

第2章では、このように様々な思想家・哲学者の論考から「死」を捉えて終わりました。

 

 

ディスカッションの時間は、はじめに、「(一般的には)死が怖いと感じるのはなぜ?」という論点が挙がりました。

そこから、「自分が消えたことも含めて、何も感じないことの恐怖かあるから?」「日常が失われる恐怖があるから?」という意見が挙がったり、

「子どもが生まれたことで死の捉え方が変わった」という話や、

「子供の頃、母がいなくなる(死ぬ)ことを異様に恐れて、ホルマリン漬けにしている夢を見ていた」という話など、死に関連したそれぞれのエピソードが語られました。

 

また、人類が滅亡した星で生き残った、永遠の命を持つ家族のお話『銀河の死なない子供たちへ』という漫画が紹介されました。

そこから、鬼滅の刃における生と死など、漫画での取り扱われ方についての話題でも盛り上がりました。

 

漫画などのメディア作品からも、死生観だけでなく、様々な価値観に影響を受けることは多くありますね。

 

次回、第4回(偶数回)は、5月11日(火)10:30~12:00、ハンナ・アレントの『人間の条件』より「第2章 公的領域と私的領域(4~6節)」を扱います。

第5回(奇数回)は、5月25日(火)10:30~12:00『人生の哲学』より、「第3章 生と死を考える(その3) 永遠性の問題」を扱います。
レジュメ作成と報告は、家庭医の大久保先生が担当します。

 

参加希望や、この活動に興味のある方は、下記案内ページより詳細をご確認ください。
皆さまのご参加をお待ちしております。

 

執筆:吉成亜実(みらいつくり研究所 リサーチフェロー兼ライター)

 

みらいつくり哲学学校オンラインについてはこちら↓

2021年度哲学学校のお知らせ

 

次回の報告はこちら