みらいつくり個人誌『生活者』No.003 発行者:松井翔惟
この一ヶ月ほど、時差出勤をしています。この働き方が「いつも通り」になってきました。いつもと同じ駅のいつもと同じ乗車口に、いつもと同じ人たちと一緒に並びます。琴似の駅に着く前に、JRの窓から、左手に藻岩山、正面に三角山、右手に手稲山が見えます。三角山だけ、もう雪が無いので、こちら側に迫ってくるような感覚があります。いい景色だったので「ねえ見て」と妻の肩を叩きました。妻がそちらを向いた時には、もうすでに景色は変わってしまっていました。私は手稲山の独特な峰の形がとても好きです。私にとって、藻岩山は、別の街の山のようです。私が勝手に藻岩山にとっつきにくさを感じているのは、私が手稲山と三角山に挟まれた土地に育ったからでしょうか。
先日、東畑開人さんの『居るのはつらいよ』を読み終えました。四月から一緒に働き始めたサカイさんが教えてくれました。引用したいことはたくさんあるのですが、一箇所だけ。〈それはエッセイの言葉で語られるしかない。「ただ、いる、だけ」はそれにふさわしい語られ方をしないといけないのだ。そして、それは語られ続けるべきなのだ。(337ページ)〉
東畑さんは、ケアとセラピーを比較しながら論を進めます。私は頭の中で、「ために」と「ともに」の比較をしながら読み進めました。東畑さんの言葉を使うと「ためにあること」は線的で「ともにあること」は円的と言えます。その円的な「ただ、いる、だけ」は「エッセイの言葉で語られるしかない」とあります。私が個人誌を始めたいと思った理由はこの言葉の近くにあるのかもしれません。
いい本を知ったな、と思うと嬉しくなります。鼻高々に「多くの人に知ってほしい」なんて考えながら、マスクをつけて紀伊国屋に行きました。すると、この本について「読者と選ぶ人文書 第一位」と大きく掲げてありました。私は誰にも見えない恥ずかしさを心に人混みを避けて家に帰りました。
今日、稲生会では分散出勤の訓練が行われます。子どもたちが来る教室には行けないので、ドアにお手紙を貼り付けてきました。これから、いつもとは違う形で働くことにも慣れていく必要があるのかもしれません。私にとっては苦手なことの一つです。いつもとの違いを子どもたちはどのように感じているのでしょうか。次に会ったとき、聞いてみたいと思います。